御嶽山の信仰 【歴史】

御嶽山が現在のような登山の形態(修験者、信者、一般登山者)になったのは、次の3人による影響が挙げられます。
・役小角(えんのおづぬ)
・高根道基
W・ウェストン

まず最初に、簡単に彼らの紹介をしておきます。

 ・役小角
大和国、葛木に生まれ、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれています。飛鳥時代から奈良時代まで(634~706年)に実在した人物です。幼少から梵字を書き、15歳では登山を日課としていたと言います。修験道や密教の開祖としても知られ、数々の伝説が残されています。

・高根道基
信濃国の国司(律令時代の地方官)だった人物。中央から派遣され、一国の民政、裁判を司る存在です。

W・ウェストン
本名はウォルター・ウェストン。牧師であり、登山家。イギリス山岳会会員で日本山岳会名誉会員でもあります。日本には宣教師として1888年(明治21年)より3度来日、布教の傍ら日本の山を広く海外に紹介するなど、日本の近代登山の発展に大きく貢献しました。上高地を開山、「日本アルプス」の名付け親としても有名です。

では、次にこれらの人物がどのように御嶽山に関わったのか述べて行こうと思います。

役小角は全国各地に修行の場を求めて飛び回り(修験道の霊場である大峰山は役小角を開祖としており、また近畿を中心とした大阪、奈良、滋賀、京都、和歌山には役行者ゆかりの36寺社が存在します)、42代・文武天皇の大宝年間(701~704年)には御嶽山にも登拝したと言われています。

文献資料が残っているわけではなく、なにぶん伝説の域を出ませんが、このことはのちに大きな影響を及ぼします。つまり、これが50代・桓武天皇の延喜年間(782~806年)に高野山の開祖である弘法大師、空海の御嶽山登拝につながって行くのです。この時期、御嶽山と修験道(密教)との繋がりが出来たものと考えられます。

信濃国司である高根道基は大宝2(702)年、奥社(王滝頂上)を開きました。これが御嶽神社の創祀であると言われます。
その後、49代・光仁天皇の宝亀5(774)年、同じく信濃国司の石川朝臣望足が、当時国内に流行した疫病の平癒と退散を祈願するため、黒澤口から登山して神殿を創建、大己貴名命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の奉祀を行いまいた。

さらに60代・醍醐天皇の延喜年間(901~923年)には、京都北白川の住人、宿衛少将重頼卿が、神恩報謝のために遠路はるばる登拝して神殿を再建しました。80代・高倉天皇の治承年間(1177~1181年)には、国司である木曽権頭兼遠が、その子、今井四郎兼平、樋口次郎兼光などと共に、預かり子である駒王丸(後の木曽義仲)を伴って登山して一族の武運長久を祈ったという史実が残されています。

現在、御嶽神社では国常立命(くにとこたちのみこと)を加えた3つの神様が祀られており、御嶽山全体を御神体とする見方が一般的です。

このようにして御嶽山は神道との結びつきを深めていきました。

最後に、W・ウェストンですが、彼は上高地の開拓者として知られる通り、日本にある数多の山に登ってその魅力を国内外へ紹介してきました。一説には宣教師としての仕事よりも登山に夢中だったため、教会から反感を買ったとも言われています。そんな彼が御嶽山に訪れたのは1894年のことでした。そして、これを契機に一般の登山者が増えはじめ、今日では家族連れや初心者で賑わう山となったのです。

以上のようにして仏教(修験道)、神社、一般登山が共存することになった御嶽山では、7月下旬から8月初旬までの夏山シーズン最盛期、法螺貝を吹き鳴らす山伏の姿や「六根清浄」を大合唱しながら集団登拝する信者、ツアーで訪れる中高年のグループや家族連れの歓声が入り混じり、たいへん賑わいます。


この記事へのコメントや追加情報等お寄せください


画像の中に見える文字を入力してください。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://ontake38.com/mt/mt-tb.cgi/159

..