御嶽山の歴史 【偉大な行者】

【江戸中期までの御嶽山】

御嶽山は近世中期まで厳しい戒律があり、重潔斎を終えた一部の道者と呼ばれる者を除いては一般民衆が軽々しく足を踏み入れることが禁止されていました(道者は参拝できない者の代参も請け負っており、その謝礼は金子一両と扶持米三歩だったと記録にあります)。

また、徳川将軍家が政権を掌握して以降、木曽谷一帯は御三家の一つである尾張大納言の所領となり、国防と山林保護の観点から「御留山(おとめやま)とて支配されました。これにより、より一層厳しく入山が制限されるようになりました。

そんな中、民間信仰の新たな風習の一つとして神道的な信仰による集団登拝のための講社を結成する活動が活発になりました。伊勢神宮参拝を目的とする「伊勢講」や「金比羅講」「稲荷講」などがそれで、駿河の富士山へ登拝することを目的とする「富士講」や相模の大山、紀伊の熊野、羽前の月山、九州の彦山などへ登拝することを目的とする「大山講」「月山講」など、所謂、登山講社と呼ばれるものが続々と誕生して、それらの山々ではすぐに一般登拝者の入山を許可するようになりました。

しかし、木曽・御嶽山に限っては依然として古い習慣が守られていました。木曽谷住民をはじめ、一般庶民からは国内屈指の名山であり、古来から人々の信仰を惹きつけてきた御嶽山に対して解放を願う声が日増しに高まり、全国各地で登山講社結成の動きが急速になるにつれ、その声は御嶽信仰に帰依する万民の願いとして巷に満ち溢れるようになりました。

そうした世相のうちに時は流れて徳川末期の天明・寛政年間に時代が移り、覚明、普寛という二大行者の難行苦行によってはじめて御嶽山は一般民衆に解放されるようになりました。そして江戸時代末期から文明開化の明治初期にかけて御嶽信仰は猛烈な勢いを以って全国津々浦々へ広まっていくことになります。

 

【黒沢口の開拓者・覚明行者】

覚明行者は享保3(1718)年3月3日に、尾張国春日井郡牛山村の農夫清左衛門と千代の間に生まれました。生家は貧しかったため土器野村の新川橋辺の農家に引き取られて育てられました。

木曽大桑村にある田沢家の伝承によると、覚明行者は元々、魚商人で名古屋方面から木曽へ行商に荷物を担いできて家(田沢家)でよく休んだり宿泊したと言います。しばらく姿を見せなくなって、どうしたのだろうかと訝っていたら数年後、今度は行者になってやってきたそうです。
 
王滝村にある御嶽神社の神主、滝氏が所蔵する『神社留記』には、「天明4年、5年の両年にわたって黒沢村の武居家へどこの国のものかはっきりしない坊主が来て御嶽登山を許可してくれと頼みこんできたが、登拝は古来より百日精進の重潔斎でなくてはならないとして許可しなかったところ、天明5年にはついに許可を待たずに6月4日8人、14日には30人余り、28日には7、80人余りが御嶽山大先達覚明という旗をおし立てて登った」とあり、覚明行者が天明4年に御嶽登山の念願を持って黒沢村へ来たことがわかります。

 

なお、記録には「此坊主名古屋通り松にて3年以前(天明2年)御追放にて山賊の張梵切支丹の様相見へ申侯。」とあり、この以前から行者として相当の活動をしていたこと、名古屋を追放された行者は中山道を下って木曽に来たことが考えられます。

また、大桑村野尻では覚明行者が古瀬屋に宿泊し、古宮の滝という所で修行をしたことがあると伝えられており、木曽福島の願行寺(木曽代官の山村氏に所縁のある天台宗の寺院)の覚円法印に師事したとも言われています。さらに開田村の西野、未川には、覚明行者が布教を行ったとき、この地に赤松が生えているのを見て稲作が可能であると、開田を勧めたという伝承が残っています。

 

また、木曽福島ー西野間の荷運びをしていた作次郎という者が強力(ごうりき・登山の際の荷物運び)を務めたと言われており、御嶽登山を決行する以前から山麓にある村落の間を布教して回ったことが推察されます。

 

覚明行者の行動について『連城亭随筆』では行者が川へ棒を浮かべてその上を伝って渡る術を持っていたことが明記されており、『神社留記』にも「霞を自在に仕り、御体も己が自由自在に仕り、怪敷き事にて諸人の目を驚し申候」とあり、行者が非常に優れた法力を持ち、山麓の村々に於いても多くの信徒を得ていたことが窺われます。

 

行者が初めて黒沢へ来たときの様子を伝えるものとして、鎌倉時代以来、御嶽の支配者としての地位を与えられていた黒沢村の神官武居家には次のような口伝が残されています。
「黒沢村の某が福島の半夏の馬市に出掛けての帰りみちに合戸峠で覚明行者に行合い黒沢へ案内して来た。そしてねんやへ連れて行き登山のことを依頼したが百日の精進をした者でなければ登らせるわけにはいかないと言って許されなかった。それで田中の庄屋のところへ行ったが田中でも、ねんやと福島の代官様の許しがなければ到底登山することは出来ないと諭したので、諦めて帰って行った」

これは軽精進によるみだりな登拝は数百年来続けられてきた重潔斎による登拝行事の慣例を破るものであり、御嶽の神威を犯すおそれがあると判断したものです。

 

しかし、その後も覚明行者は軽精進による登拝の念願を捨てることができず、翌天明5年(1785)6月に登山を強行しました。そして天明6年にも信徒を引き連れ登拝を決行するとともに、黒沢村薮原の仙長九郎などの協力を得て登山道の改修に着手しましたが、事業遂行の中途で病に罹り、天明6年6月20日に御嶽山の二の池湖畔で入寂しました。ミイラ化した遺骸は信者たちによって9合目、現在の覚明堂がある場所に葬られました。

覚明行者の没後、その功績が認められ、寛政4年には武居家より正式な軽精進による登拝の許可が下り、これによって御嶽信仰が木曽周辺の狭い範囲から全国的な広がりへと発展する契機が作られました。

覚明行者の偉大な功績に対しては嘉永3(1850)年に上野東叡山日光御門主から菩薩の称号が授けられました。黒沢の赤岩巣橋にある霊神場の霊神碑はその時に建立されたものとして有名です。

 

【王滝口の開拓者・普寛行者】

普寛行者は享保16年(1731)、武州秩父郡大滝村の落合で木村信次郎の五男として生まれました。幼名は好八といい、幼い頃に浅見家の養子となって後年は左近と称しました。少年期より剣術が好きで青年期には江戸の八丁堀にある法性院を頼り、剣術と漢学を学びました。江戸で5本の指に入る剣客となった浅見好八は「とき」という女性を娶ったが子供に恵まれず、女の子を養子とするも夭逝してしまいました。

ある日、故郷の髙雲寺の別当、日照法印が江戸の三峰講を廻ってから浅見家に立寄った時、浅見好八を見て「貴方は剣を以って世を過す人ではない、数珠を持って人心を救う人であると感じたが、いかがなものか」と言いました。日照法印は霊感で彼の器量を見抜いたのでした。

浅見好八は深く決心するところがあり、妻と相談して同意を得たのち、藩主に申し出て妻を伴い故郷へ戻りました。妻を実家に預けて髙雲寺の日照法印に師事して剃髪、修験者となって名前も普寛と改めました。

三年間に渡って台密二教の奥義を探究して明和3年(1766)、8月、権大僧郡に昇格、本明院と号しました。再び江戸へ出た普寛行者は法性院の法統を継承、聖護院派に所属していた関係から江戸府下にある聖護院派の修験長に選ばれて天明2年(1782)、10月、伝燈阿閣梨となりました。しかし、同年、「庶民のために病厄を戒除する」と言って修験長の職を辞し、木食、水飲の修行を行いました。

その後、諸国遍歴の旅に出た普寛は奥羽地方、関東、中部地方、関西地方を巡行して様々な修法や行方を見聞・習得しました。そして、37、38歳の頃、後に御嶽山独特の神仏感応の格段の行法につながる妙法を編み出しました。


しかし、普寛行者が御嶽山開闢を遂げるのはまだ後年のことです。

諸国遍歴を終えた普寛は八丁堀の法性院で剣術指南などを勤めながら、庶民救済のため加持祈祷を行っていました。特に京橋八丁堀の和田孫八方で石に呪文を唱えながら少女の痣を治したことが江戸市中の評判となって、後に御嶽登拝の同行者として加わることになる住吉町の三河屋庄八、高砂町の秩父屋歳次など、江戸の有力商人たちの帰依を受けるようになりました。

普寛行者が木曽御嶽山を開闢するきっかけとなったのは、四国霊場行脚の時であると言われています。
『開闢記』には、「普寛行者、遇々四国行脚の折、真に不思議な僧に会う、同行する事三日に及ぶ。僧曰く『貴僧は珍しき行者なり、体格よく、頭脳明晰で、修法力も抜群である。貴僧の器量にて人助けせば、永く済度する事が出来るであろう。日本で灼な神が鎮まりたまう山で未だ開かれていない名山がある。その山の名は木曽の御嶽である。貴僧は此の山を開き、万民救済に努め永く後世に至りてもその貴僧の思いは伝燈として受け継がれるであろう。』と云い残し去って行ったのである。」という記述が見られます。

普寛行者が不思議な僧に会ったのは50~52才頃であり、後にこの僧は高野大師(弘法大師)の霊体であった事が神勅によって明らかになっています(普寛行者53・54才歳のことでした)。

しかし実際には寛政2年(1790)5月、秩父で王滝村出身の日雇頭、与左衛門の失明を加持祈祷によって救った際、彼の話に暗示を受け、王滝開闢に至ると言われています。

そして準備万端に整え、御嶽山へ向けて出発したのは寛政4年(1792)の5月でした。普寛行者61~62歳の頃です。この時に同行したのは三河屋庄八など4人の弟子でした。王滝村へ到着して開闢登山を開始したのは同年6月8日で荒れ模様の天気の中だったそうです。茂った雑草木・蔓を鎌・ノコギリで折り切り、所々に神仏を鎮祀して行きました。本山に入るまでに2、3日かかり、御嶽山の本山へ登り始めた時は雨と霧で山中で一泊しました。翌朝は辺り一面は霧に包まれており、目前も判らない程でしたが、一羽の雷鳥が現れ、それに導かれて頂上へ到達したと言います。

その時、普寛行者が鎮めたのは「御嶽山座王大権現、八海山提頭羅神王、三笠山刀利天宮」とする御三神でした(「国常立尊、大已貴命、小彦名命」を御嶽大神と称するのは後に神道式に祀ったものです)。

こうして普寛行者は弟子4人と共に長年の夢だった霊峰・木曽御嶽山の開闢を成し遂げたのです。

また、寛政5年(1793)の2回目の登拝には江戸霊岸島の木材商である桝屋庄三郎方で代理人として活躍していた王滝村出身の吉右衛門に案内を頼んでいます。彼は後に普寛の四天王と呼ばれた吉神行者です。彼は道者として御嶽登拝の経験を持っていたと言います。

その後、夏になると弟子や信者と御嶽登拝を決行すると共に、江戸を中心とした関東地方を加持祈祷しながら行脚して悩み苦しむ多くの人々を救済していきました。同時にそれは関東一円に御嶽信仰を拡大して御嶽講の基礎を構築するものでした。

普寛行者は越後国の八海山、武蔵国の意和羅山、上野国・利根郡の武尊山も開闢してその分神を御嶽山に勧請しています。


享和元年(1801)9月、普寛行者は布教の途中に武州本庄宿の米屋弥兵衛方に滞在していたが、病気に罹り、同月10日、多くの弟子や信者たちに見守られながら大往生を遂げました。享年72歳でした。

その時、施主を務めたのは近隣にある若泉山安養院無量寺の文竜上人で、朝夕懇ろに手厚く供養を施しました。

普寛行者は「亡骸はいづくの里に埋むるとも 心御嶽に 有明の月」という辞世の句を遺しており、遺骨は遺言に従って御嶽山ハナド(花戸、花堂)と郷里である三峯山麓、遷化した本庄宿、そして江戸法性院の墓地に分骨、埋葬されました。

 


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